この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。(33節)
エジプトを脱出したときに、神が人間の「手を取っ」たというのは、『エレミヤ書』独自の言い方です。神の手が、神の民一人一人の手をしっかりと掴み、引っ張って、導いていく。そのような直接の関係が、私たち人間と神の間にあるのだと言います。
イスラエルの人々にとって手は、律法の言葉を結びつけておく場所でした。現在でも、ユダヤ教の一部の人たちは、左の手の甲から肘にかけて、黒いテープのような帯を何重にも巻きつけて、その先に、律法の言葉が入った小さな箱を結んでいます。律法の言葉を忘れないために、手にしっかりと結び付けておくことが、『エレミヤ書』が書かれた時代にはすでに定められていました。 「そうやって、律法の言葉を手に巻きつけているけれど、では、その手を神に直接掴まれ、引っ張られている感覚を、あなたは持っていますか?」と、『エレミヤ書』は問いかけているように思われます。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(33節)
「胸の中」と訳されているのは、私たちが何かを考えたり、感じたりするときに、いわば本部となるような、人間の内奥、奥底のことです。表面に何かを巻きつけることのできる手ではなくて、本人さえも触ることのできない「胸の中」すなわち「心」に、神自身が律法を与えるといいます。
今日の箇所のすぐ後ろには、「太陽」「月」「星」「海」という、スケールの大きな言葉が並んでいます(35節)。東の地平線から上って、西の海へ沈んでいく太陽の動きは常に変わることがなく、月の満ち欠けや潮の満ち干は、一定のリズムを太古の昔から守り続けています。夜空の星は、今日も明日も明後日も、変わらずそこにあって、輝き続けていますね。私たちの心も、実はそれらと同じなのだと、『エレミヤ書』は言います。
「心変わり」「心移り」という言葉があるように、私たちは、自分の心がどれほど移り変わりやすい不安定なものであるか、よく知っています。もちろん、『エレミヤ書』も、そのような心の弱さを知っており、人間がいとも簡単に神との約束を忘れてしまうということを、繰り返し嘆いています。
しかし同時に、私たちの「心」それ自体は、神から与えられたものであると、はっきりと言っています(24章7節「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」)。神の手で造られ、神の手で人間の中に置かれたものが「心」であると言います。神の手で作られた心に、神の手で文字が刻まれるならば、それは、太陽や月や星と同じように、ちょっとやそっとのことでは変わることのない確かさを持った、神の作品となるのではないでしょうか。神の言葉が私たちの心に刻まれることは、それほど、永遠の価値を持った事実なのだということでしょう。
「〔…〕結んだものではない」(32節)という部分は、原文では「〔…〕結んだ契約のようにではない」と書かれています。別の新しい契約があるのではなくて、新しい仕方で、契約が再び結ばれるということですね。それはつまり、今も昔も変わらずに存在している、私たちの心と神のつながりに、私たちの目が新しく開かれることなのだろうと思います。
教会で聖書を開く私たちは、神の民に与えられた契約として『旧約聖書』を大切にしながら、イエス・キリストを通して私たちに語りかける神の言葉を聞きます。その言葉は、その時ごとに、私たちの耳に新しく響きます。私たちの心に神の言葉が刻まれるのは、まさにその瞬間なのだろうと思います。私たちの心に確かな文字を刻んでいく神の手の業を思いながら、来週からの礼拝で聖書が読まれる声を聴いてみると、きっと良い時間になるのではないでしょうか。
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