札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「無実の血」
マタイによる福音書 27章1-14節
牧師 堤 隆
7月31日 礼拝説教より
「教会の声」説教(2022年8月号)

 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
  さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 前章では、ペトロ+大祭司+ペトロというサンドイッチ構造で権力者大祭司も、権力を恐れるペトロも共に力の虜になっていることが明かされました。このサンドイッチ構造が27章にもあります。「総督ピラトに渡した」(2節)、「イエスはピラトの前に立たされた」(11節)、「イエスを裏切ったユダ」(3〜10節)。ピラト+ユダ+ピラトとなっています。主を裏切る時でさえ「十二人の一人」と紹介されていたユダがここでは「裏切ったユダ」と紹介されます。ピラト+ユダ+ピラトというサンドイッチの中で「渡した〜裏切り〜売り渡した」(2、3、4節すべて「引き渡す」という同じ語)と繰り返されます。ピラトとユダ両者に一体性があると言います。この一体性はピラトとユダの二人に限りません。ユダは大祭司・長老に引き渡し、大祭司はピラトに引き渡し、最後にピラトは十字架に引き渡しています。主を引き渡す連鎖が起こっています。罪の連鎖は異邦人も含むすべての者に及ぶと聖書は申します。
 この時までユダは自分の裏切りを十分には自覚していなかったようです。それが、「有罪の判決が下ったのを知って後悔し」ました(3節)。『引き渡しはしたけれども、死刑になるとは思っていなかった。大それたことをしてしまった』と後悔しました。この裏切りは信頼関係の中から始まりました。信じ信じられというところからです。ユダは自分の方から裏切ったとは思っていなかったようです。ベタニヤでの塗油の時に、貧しい者への施し以上の救いを行うと主が明言されると、ユダには自分の期待が外れた、裏切られたと思われたようです。自分の思い描く救世主には程遠いと。そんなユダでしたが「後悔し」ました。原語も「後で+気にする』です。ユダは悔やんでも悔やみきれなくなりました。しかし、後悔先に立たずです。それでもユダは事態の改善を図ろうと、銀貨30枚を返して、自分がしたことを無かったことにしてもらおうとしました。もちろん、そんなことで正式な死刑判決は覆えりません。ユダは自分のしたことを帳消しにしたかっただけです。何をしてもどうにもならないことは分かっていましたが、居ても立ってもいられなくてなりふり構わず振る舞いました。悲しい後悔先に立たずです。
 それでも、ユダは「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4節)と言って自分の罪を告白しました。そして罪の決着を自分でつけて「首をつって死んだ」(5節)。告白の言葉は正直ですし正確です。それなのに、なぜ縊死しなければならなかったのか?ペトロも主を見捨てました。力を恐れ力に屈したペトロは、ユダと同じ罪人です。ユダのように罪の告白すらしていません。それなのに、ペトロは首をつることはありませんでした。ユダ以上に高慢で厚顔あったとも思えません。ユダが銀貨三十枚を返そうとすると祭祀長らは「お前が見よ」(「我々の知ったことか」の直訳)即ち。『もう済んだことだ、自分の面倒は自分で見よ』と突っぱねました。ここがペトロとの違いとなりました。相手を間違えた。いくら正直に正確に罪を告白しても、相手が主を裏切り引き渡す共犯者であっては、受け止められない。告白された相手もどうしようもありませんでした。それで、ユダは自分で首をつるしかありませんでした。それなら、どうして同じ裏切り者のペトロは首をつらなかったのか。ペトロも主を否んだ時、「苦く泣いた」(26:75直訳)のでした。苦く泣いても後悔でしかありません。どこが違ったのか?「イエスの言葉を思い出した」(26:75)。この一点です。ユダも最後の晩餐の時に裏切りを予告されていました。これを思い出したか、忘れたかという記憶の違いではありません。どれだけ、主のみことばが胸に突き刺さったかの違いです。ペトロが主を三度否んだことはペトロ自身しか知らないことです。それがこうして、聖書に読めるということは、ペトロ自身が重い口を開いて自分の罪を皆に話したからです。あの時自分はこうだったと皆に話しながら、主に罪を告白していった。
 

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