札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「主を待ち望め」
詩篇27篇1節~14節
牧師 堤 隆
待降節第一主日 11月29日礼拝説教より
「教会の声」説教(2020年12月号)

【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。
  災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。
主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「主を待ち望め」とのこの詩篇の一節は待降節に相応しいと思います。待ち望めといっても、子どもが誕生日やお正月を心待ちにするのとは違います。「心を強くせよ」(「固くせよ」直訳)だからです。また、まだかまだかと焦って待つのでもありません。「雄々しくあれ」即ち「しっかり握る(直訳)」だからです。「主を待ち望め」が「雄々しくあれ、心を強くせよ」を挟み込んでいます。そして、これはモーセの後継者ヨシュアがいよいよ約束の地に入って行こうとするときに、神様から掛けられた言葉です(申命記31:6、ヨシュア記1:16)。これから未知の土地に入っていく不安、何が起こるかわからない心配の膨らむ中で、しかも神に背いた40年の重い罪を背負ったままのイスラエルの民に、神はこのような声をかけられました。発破ではなく、慰めと励ましであったに違いありません。「待ち望め」は綱とか紐を語源とする語です。巻き付いたり絡みつくようにして待つ。ただ執拗にというのではありません。「私は信じます。命あるものの地で主の恵実を見ることを」(13節)と言いますから、信頼と確信を持って待ちます。
 27篇は神への信頼と確信を訴え、そこにどのように行き着いたかを歌い上げます。「雄々しくあれ、心を強くせよ」は、「わたしは誰を恐れよう~わたしは誰の前におののくことがあろう」(1節)に呼応します。詩人は怖れおののかざるを得ない中でこう言っています。やせ我慢や貼ったりではありません。現実の恐れおののきは「さいなむものが迫り」、即ちいじめられている。「わたしを苦しめるその敵」、が目前にいて敵対している。しかも、「わたしに対して陣を敷いて」、集団で立ち向かって来る。絶体絶命の有り様です。それでも詩人は「わたしの心は恐れない」(3節)と申します。「主はわたしの光、わたしの救い~主はわたしの砦」だから。まさにクリスマスの主を詩人は見通しています。わたしの光、救い、砦と畳み掛けるのはその実際を目の当たりにしているからです。それを具体的に列挙します。「主の家」(4節)、「仮庵」(5節)、「幕屋」(6節)。40年彷徨った荒れ野の仮庵(枝や葉っぱの仮小屋)、幕屋(テント)にあっても「主の家」として「いけにえを捧げ、歓声をあげ、主に向かって賛美の歌をうたう」ことが許され続けました。荒れ野でのそれはまさに赦しの礼拝でした。そして実際に礼拝を献げるとき、神様は「群がる敵の上に頭を高くあげさせてくださる」(6節)のでした。
 詩の後半は祈りについて歌われます。「わたしの声を聞き~わたしに答えてください」と語り出します。私たちは祈りが聞かれるのは当たり前、祈りは自然に湧いてくるものとも思っています。しかし、詩人はそうは思っていません。「心よ、主はお前にこう言われる」(8節)と呼びかけられたと言います。この「心」は3節、14節と同じです。「意志」(直訳)です。情緒や感情とは違います。「心よ」と擬人化されているのは意志を持つ人格のだからです。わたしの心、意志、人格は神様から呼び求めらて、初めて祈ることができる。「わたしの顔を尋ね求めよ」と。それで詩人は「主よ、わたしは御顔を尋ねます」と応えた。神と人との人格が呼応します。
 9節以下は詩人の献げる祈りです。あれ程人格的交わりが祈りであると言っていた詩人がいざ祈りだすと、「見捨てないでください」と祈りました。まるで神様に見捨てられそうだと言うようにです。なぜ、なのか?「なぜなら、わたしの父は、わたしの母は、わたしを見捨てましたから」(10節直訳)。これが実際でした。厳しい地上の現実の中で最も親密で信頼を寄せていた実父実母に見捨てられる始末でした。だから、神様はわたしを見捨てないでくださいと祈りました。
 クリスマスの主もこの祈りをされました。十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と。父母でさえ、我が子を見捨てる地上の罪を負ってこう祈られました。これが御心でした。御子を見捨てて人を救われました。主に絡みついて、わたしの光、救い、砦となってくださいと祈りたいと思います。
 

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉