札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「命を捨てる愛」
ヨハネの手紙一 3章11節〜18節
牧師 堤 隆
2月2日降誕節礼拝説教より
「教会の声」説教(2020年2月号)

  なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」とは、中々受け入れてられない言葉です。しかし、ヨハネは「〜べきです」と命じます。無理強いとも思えません。真意を聞き取りたいと思います。
 さて、ヨハネはこれとは正反対の事例を取り上げて事柄を明かにします。創世記4章のカインとアベルの物語です。肉親の兄弟が愛することに失敗し弟を殺してしまいます。ヨハネはその理由を「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」と言います。創世記を読みますと、兄弟は共に精一杯働いて精一杯献げています。私たちがこの礼拝で「献身の徴」として献金するのと同じです。それなら、どこで悪い行いと正しい行いが分かれたのか?神様が「目を留められたが〜目を留められなかった」からです(創世記4:4〜5)。神様がえこひいきなさって、むしろ神様が悪い行いをされたとは考えられません。創世記はこの違いの理由を語りません。現実だけを述べます。私たちの現実は頑張ったら頑張っただけ報いられるとは限りません。カインとアベルの両方を味わいます。
  カインは、激しく怒って顔を伏せます。憤懣やる方ない。自分よりも報いられる者がいる。それが許せない。実際には弟のせいでも神様のせいでもありません。そこで神様はあなたの怒りはわたしのせいかとお尋ねになります(7節)。正当に怒るのなら顔を上げたらいいとまで言われます。理不尽に遭うとき、正しい行動をとるか悪い行動をとるか、そこに違いが生まれると神様はおっしゃいます。「罪は戸口で待ち伏せており」はその分かれ目のことです。自分よりも優遇される者に怒り神から顔を背けるなら罪に支配されてしまう。「お前はそれを(罪を)支配しなければならない」と神様は言われます。ヨハネは、世は神に従う者を憎むと言います(3:13)。カインを怒らせたのは理不尽な世です。自分は頑張ったのに報いられない。世は理不尽を見せつけ、そればかりか、それでも御心に従うことを止めない者を憎む。13節は「だから、兄弟たち」と呼びかけています。主イエス・キリストの兄弟とされている神の子たちよ、世に憎まれて当然なのだと申します。
 兄弟を憎むのは世に限らない、教会においても起こるとヨハネは率直に言います(17節)。カインとは逆にです。いわゆる世の富を持っており十分報われている人。その一方で「必要な物にも事欠く」兄弟が側にいる。普段人を羨むばかりの者は逆の立場に立っても憐みを示すことはないと、ヨハネ強烈です。この「同情しない」は「憐みを閉じる(直訳)」です。人を羨む者は、憐みの心をを閉じてしまう。恐ろしいことです。それでヨハネは教会において知ったのは愛ではなかったのかと喚起しました。羨んだり見下したりするのではなく愛そうと。憐みの心を持つ愛を教会で知った。それで、死から命へと移された(14節)。人を愛することのなかった者が愛するようにされた。これが死から命へっであった。羨んだり見下す者は兄弟を憎むだけでは済まなくて、人殺しになる。それこそ、死んだ状態です。世には誰のせいでもない理不尽が満ちています。カインのことは弟のせいでも神様のせいでもありませんでした。カインはそれを八つ当たりして罪を犯しました。怒り、憎しみ、殺意を生み出す罪の深刻さがあるので、ヨハネは「罪を支配せよ」とのみことばを聴こうと訴えます。
 罪をどう支配するか?主が死から命へと移してくださった(16節)。愛することのない者のために命を捨ててくださった。死んでいた者を生かすためにご自分の命を代価とされました。等価交換してくださいました。私たちの命は主の命と同じだけ重いものとされました。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきである」。御子に与えられた命だから、御子と同じように生きる。兄弟を愛し尽くす。自分がいい気持ちになるためではありません。主は私たちを愛して苦しみ命を落とされました。愛には苦難が伴う。博愛精神や寛大な心では到底間に合いません。「行いをもって誠実に愛し合おう」とヨハネは訴えます。このために本日の教会総会において御心を受けたいと思います。

 

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