ピラトは自分の権力を振りかざしてはみたものの、あなたの権限は神からのものだと言われると、振り上げた手を降ろします。「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと務めた」(12節)。一人も失いたくないという御心がピラトをここまで惹きつけました。神の真理に無知であったピラトが主と出会い、真理に引き寄せられて行きました。神様は誰のことも招いてくださっていると分かります。しかし、鉄が磁石に吸い寄せられるような自動的なものではありません。ピラトは主と言葉を交わしながら引き寄せられて行きました。これが神様の招きです。みことばによって招かれる。例外はありません。わたしたちもその一人びとりです。
ところが、神様がここまでピラトを引き寄せてくださっているところに割って入る者がありました。「しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない~』」(12節)。この「叫んだ」は「吠えた」(直訳)です。ピラトと主とのことばによる交わりの間に獣の叫びが割って入りました。そして、ピラトの一番痛い所を突きました。吠えて噛み付いた。「あなたがこの男を釈放するなら、この男同様皇帝に背く者だ」と。絶大なローマ帝国の権力を誇る総督ピラトでしたが、この獣の叫びを聞きますとサッと身をかわします。「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバダ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」(13節)。あれほど釈放に努力していたのに、さっさと中止して裁判を始めました。主を自分の「外に」出してしまいます。我が身可愛さのために、自らの脆さを晒しました。ピラトは一瞬にして神様の真理から外に出てしまいました。わたしたちはどうか?自らの弱さ脆さを思わしめられることしばしばです。しかし、いや、だからこそ、神の子主イエスはこんな肩すかしを喰らわされても、御心を担うことを止められませんでした。「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」。神の救いの日が過越祭です。真の過越の小羊となることを、主は担われました。主は十字架に屠られてまでわたしたちの弱さ脆さ罪を担ってくださいました。
獣と化した人々は「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と吠え続けます。ピラトが「あなたたちの王を私が十字架につけるのか」と言っても聞きません。「皇帝の他に王はありません」と嘘ぶきます。神の子はそれでも御心を振り払う者たちを担われました。わたしたちが担われています。畏れ多いことですが、担い続けて頂くしかありません。
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