「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。ここに主が苦悩の祈りをして来られたことが窺えます。受難、十字架に真っしぐらに突き進まれるお姿があります。ただ、勇敢であられたとか迷いがなかったというのではない。裏切られる無念や肉体の痛みが無いはずがありません。心身ともに苦しめられズタズタに傷つけられる中で、「父の杯」を飲むと決断されました。「キドロンの谷」は「暗い・黒い冬の流れ」と書いてあります。過越祭のころですから早春です。とっくに水無し川になっていました。荒涼としていた。干からびて川底を晒し、魚も住まない、命を宿すことのない川を渡っていかれたそこにヨハネは注目します。十字架という暗黒へと向かって主は「出て行かれた」。明らかに人間の暗黒のとです。人間の罪の中を突き抜けて行かれた。
具体的にはユダの裏切りの中へです。ユダはここが「イエスは度々ここにあつまっておられた」場所であることを知っていました。祈りと寝食の場所だから必ず見つけられると知っていた訳です。主もユダに「しようとしていることをしなさい」と言われましたから、それはご承知でした。ですから「あえて」と分かります。ユダは一隊の兵士を手引きしてきました。ヨハネの時代、教会はローマ軍の弾圧を受けていました。ヨハネにしてみたら主も自分たちを同じ弾圧を引き受けてくださっていると思われた。それで、こう言って教会仲間を慰め励ましました。過越祭のころには満月です。それでも松明やともし火を手にして万全を期しています。主は逃げ隠れされませんでした。「御自分の身に起こることを何もかも知っておられた」からです。観念したり諦められたのではありません。自ら進み出て、だれを捜しているのかと尋ねられました。やはり主は自ら人間の暗黒の中に入って行かれたことは間違いありません。
ローマ兵が主のお顔を知らなかったため「ナザレのイエスだ」と言いますと「わたしである」と即座に答えられました。わたしのことだ。わたしは逃げも隠れもしない。
ここにいる。闇の力にご自身を差し出しておられます。この場にはユダもいました。他の福音書では裏切りの合図の接吻をしたことなどが報じられていますが、ヨハネ福音書はそれを記していません。ユダの裏切りを軽減するのではありません。捕縛の差し金を裏で引くのはユダ以外にいません。そのことを「ユダも彼らと一緒にいた」と言い表しています。自分は表に姿を現さず、合図もしないユダです。どこまでも、裏切りは濃い。罪の暗黒は深い。その闇の勢力にたいして、主は「だれを捜しているのか〜わたしである」と答えられました。「わたしである」、この一言に捕手たちは後ずさりするばかりか地に倒れました。わたしがいると言われる主の存在に圧倒されました。わたしたちも、自分の思い込みや都合で、主を捜すことは有るのではないでしょうか。救い主と言うなら、こん人だろう、あんな人だろうと勝手に思い込む。しかし、主はそんなわたしたちを圧倒されます。人の勝手な思い込みを一蹴して「わたしである」と。力に力で圧倒されるのではありません。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」。ただ身代わりになろうと言われたのではありません。「イエスの言葉が実現するため」でした。神の御心とみ子の御心は同じだとヨハネは言います。神の心が主イエスにおいて実現していると。主が守ろうとされたのは、ただ捕手からだけではありません。ペトロはこの「イエスの言葉が実現する」ことが分かりませんでした。劔を抜いて自分が主をお守り出来ると思ったか?いや、それすら窺えません。先生をお守りするためにために勇気を振り絞って劔を抜いたのではなかった。多勢に無勢でペトロはもう圧倒されてパニックに陥ってしまった。そんなペトロに主は「剣を納めなさい」と命じられました。これはkりすときょうの平和主義や非暴力の典拠として取り上げられてきました。わたしも賛成です。しかし、それだけとは思えません。無理解なペトロを守られた。「あなたを守るためわたしは父の盃を飲む」と。救いの杯を受けたいと思います。
|