週の初めの日、主のお墓が空であることを発見したマリアは「どこに置かれているのか分かりません」と弟子たちに知らせました。これと同じことが本日の聖書では3度繰り返されます。マリア一人、ヨハネの教会に限らない私たちにとっても大切なことです。甦りの主は今どこでどうしておられるのか、十分わきまえているか?自分の頭の中で想像するイエス像しか無いのではないか?本で読んだ知識のキリストしか知らないのではないか?実際に甦られた方を主と信じているか?信仰の根幹に係ります。知らせを受けてペトロともう一人の弟子が墓に走りました。後に愛弟子と呼ばれる方が先に到着して覗きましたが、中に入ったのはペトロでした。ペトロは遺体を包んでいた亜麻布や覆いを見ただけでした。しかし、愛弟子は「見て、信じた」。明らかに見ているものが違います。ペトロは現場を見ただけです。この違いは皮肉以上です。同じものを見ながら、方や信じることなく方や信じた。ペトロは見えるものだけをみたのですが、愛弟子は見える以上ものを見ました。妙な言い方になりましたが、愛弟子は見えないものをみて信じました。この直後に登場しますトマスは見なければ信じないと言い張っていたのですが、最後には「見ないで信じる人は幸いである」と主に言って頂ける人にされました。これが大切な信仰の根幹です。
甦りの主はお墓には居られないのなら、見ないで信じるにはどうしたらよいか?この場面で目立つのはマリアが泣いていることです。4回出てきます。空のお墓しか見ないマリアは泣くばかりでした。マリアの涙を宗教改革者ルターは「燃える炎の熱」と言い、カルヴァンは「無駄な涙」、「悪徳、迷信」とまで言います。果たしてどちから?私たちは涙を流したもう一人のマリアを知っています。死んだ弟ラザロのことで泣き暮れたマリア。弟の死に直面し死に圧倒され、自分も生ける屍のようになって泣き続けるマリアの涙を主は無視されませんでした。マリアを憐れみご自身も涙を流されました。その同じ主が今マグダラのマリアが涙するのをご覧になっています。ルターの解する涙にせよ、カルヴァンの言う涙にせよ、どうあろうと主は憐れまれたに違いありません。泣くばかりのマリアの側に天使が立ちます。これをマリアの幻覚と読んではヨハネによる福音書真意を外します。マリアの涙の理由となった主のご遺体が無くなった場所に天使が立った。絶望の中に神が働きかけられた。そこで二回の「どこに置かれているのか」13節です。マリアが捜していたのはお墓、遺体の置かれていた場所です。ところが、それまでとは正反対の所に甦りの主は立っておられました。マリアはそれが主だとは気づきません。それでも主は墓の外に確かに立ったおられます。これが、「甦りの主はどこに」の答えです。気付かないマリアに主は声を掛けられます。「誰を捜しているのか」と。甦りの主を見ても分からないマリアに何とか気付かせようとなさっています。そこで三度目の「どこに置いたのか」です。主はマリアと固有名詞で呼びかけられます。ほかに代わりの居ないマリアと呼びかけられました。甦りの主はどこにとの問いに、それは私たち一人ひとりの名を呼ぶ人格的な交わりの中にと答えられています。私たちが主の日毎に教会に召されるのは、マリアと全く同じです。私たちも一人ひとり名前を呼ばれてこうして招かれています。さすがにマリアも気づいて「ラボニ」と答えました。マリアは親しく呼びかけたつもりでしたが、主は私にすがり付くのはよしなさいといわれました。「触り続けてはいけない」が直訳です。いつまでも見て触ってお慕わしいと言っていてはいけない。愛弟子と同じように、見ないで信じる者になりなさいと厳しくお命じになりました。何故なら、ご自分は天の父のもとに行き地上では見られることがなくなるからだと仰っいます。
マリアは、この主のみことばで変えれました。「わたしは主を見ました」と言って伝道する者とされました。私たちもそうされたいと思います。
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