主に目を開かれた人の両親は、自分たちが尋問されますと「もう大人ですから」と繰り返し答えました。親の因果が子に報いという世間の冷たい視線に晒されて、本人以上に辛い経験をしてきた両親は、これ以上は御免だ。もう大人になったあれに聞いてくださいと答えました。両親はただもうウンザリだというのではありません。「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていた」からでした。この「お公に言い表す」は「信仰告白をする」という意味もあります。著者ヨハネの教会では「イエスはキリスト」と信仰告白をするのでユダヤ教から破門されて、信徒も村八分以上の追放に遭うようになっていました。そんな教会に広がる恐れを、この両親に重ねています。「大人ですから」は言い逃れにもなります。両親は自分たちを守るためにこう言いました。もっと酷いのはあの38年間の病気を癒された男です。安息日癒しは律法違反だと騒ぎ立てられると、恩人の主を密告しました。それが、謂わゆる「大人」の世渡り上手がすることでした。
両親もここまで酷くはありませんでしたが、上手に大人の対応をして尋問を逃れました。そこでもう一度癒された盲人を尋問しました。もう殆ど脅しです。自分たちはお前を直した者は罪ある人間だと分かっているがお前はどうなのかと言って(24節)、有無を言わせぬ強権をチラつかせています。しかし、癒された盲人は両親のように恐れることはありませんでした。彼は毅然と答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と。堂々と真正面から答えています。あなた方の知るところとわたしの知るところはまるで違うと言いました。権力者からすれば、楯突くように聞こえたはずです。しかし、この目開かれた人は自分の身の上に起こったことをそのまま語ることを臆しませんでした。卑屈なところも全くありません。彼は肉眼だけでなく、もっと根本が癒されていました。物乞いしていれば、道行く人にはおべっかを使わなければなりません。それが今では誰に対しても正々堂々としています。そればかりか「あなたがたは弟子になりたくて尋ねているのですか」とさえ言いました。単なる皮肉ではありません。著者ヨハネはこの人の口を通して訴えます。「主イエスの弟子にならなくては本当のイエスを知ることは出来ない」と。「弟子となる」と言われて引っ掛かる所がありました。われわれはあの者の弟子ではなくモーセ弟子だと返しました。主導権は目開かれた人に移っています。切り返しが上手かった、弁論がたったというのではありません。そんな小手先のことではない。「あの方がどこから来られたか」を知っているかどうかの問題だと申します(30節)。すると忽ち反発されます。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようと言うのか」と。自分たちが教えられることを拒むのは、自分たちは教えられる必要はないと思っているからです。自分たちは立派な大人だとおもっている。立派なモーセの弟子になっているから、誰からも教えられる必要はないと信じて疑いませんでした。果たして、教えられる必要はないと言うことが大人と言えるでしょうか?もう成長を止めただけではないか?ヨハネ福音書は成長することを志す者こそ大人であると申します。
とうとう、この人は追放されてしまいます。すると、主がこの人を見つけ出されます(35節)。すると、彼は自分を癒し、自分を見つけ出してくださったお方に向かって「主よ、信じます」言ってひざまずきます(38節)。主に向かって信仰告白をして拝しました。これは信仰告白そのものです。大人の信仰の姿です。無理強いをされたからではありません。闇雲に信じこんだのでもありません。迫り来る困難や恐れがあるなかで、それでも主に見出されて大人の信仰に立たせていただきました。。主は「わたしがこの世に来たのは〜見えない者が見えるようになる」ためだと言ってくださるからです(39節)。もう癒されなくても見えると言って罪に留まるのではなく、大人の信仰を歩み始めたいと思います。
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