宮潔めの目的は人間の心を正すことでした。ヨハネ福音書は神殿を商売の家にしているのは商売人に限ったことではないと申します。主は「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくす」と詩編(69:10)を引いて指摘なさいました。主は感情のままに暴れ出されたのではありませんでした。みことばに従って行動されました。「家」は神殿を表しています。神殿に対する熱意ならば悪いことではありません。神殿に冷淡・無関心ではない。熱心なのですから、心は神殿に向いています。ところが、その熱心がかえって神を喰い尽くすことになる。贔屓の引き倒しともまた違います。先ほどの詩編に「あなたを嘲る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています」とあります。神殿に対して熱心であることが、神を嘲ることになっている。「わたしの父の家」が「商売の家」とされていると言われたのは、このことです。神に対する熱意・熱心であっても、それが神様ご自身を嘲ることになる。なんとも空恐ろしいことです。良かれと思ってしていることが全く逆のことをしているのですから恐ろしい。これが人間の心の中にある。神殿で商売する者の心の中だけではありません。これは象徴的です。神殿の現状を象徴していました。神殿の中で牛や羊を売るのは、市場で売るのとは違います。全国各地から、そればかりか、世界中に移り住んだユダヤ人が神殿に犠牲獣を献げるためにやってきました。遠くから連れて来るわけにはいきませんから、便宜を図って神殿で売っていました。両替もユダヤのお金でないと献金することが出来なかったからです。しかし、ボランティアではありません。主が言われる通り、商売としてなされていました。だれもが神殿で商売が出来た訳ではなく許可がいりましたし、上納金も必要でした。上納金を取って許可していたのは、神殿を支配する貴族たちでした。神殿を祭り上げていかにも宗教に熱心であると見せかけて人々を支配していた。そして権益を独占していました。これでは、神を嘲る以外の何物でもありません。神を隠れ蓑にして人を牛耳っていました。それは人ばかりか神をも喰い尽くすものでした。人の心を占める代表格の隠れた支配欲が、神の御子を喰い尽くす。
一方ここに居合わせましたユダヤ人たちは、商売人を追い出したからにはそんなことが出来るしるしをを見せろと迫りました。証拠を見せろと言った。ユダヤ人の求めるしるしは、水戸黄門の印籠のようなものです。カナの婚礼で主が現された神様の栄光のしるしとは全く別物です。人間の権威しか考えていません。神様の権威など眼中にありません。どっちが神殿で権威をもつかと力比べをしているだけです。人間の間での力比べです。そこで一連の問答が始まります(19〜21節)。ヨハネ福音書以外(共観福音書)では神殿崩壊の預言は後ろの方に出てきます。それをヨハネ福音書はこのように前の方に置いています。宮潔めと密接なものと捉えています。ところがこの問答自体は噛み合っていません。ユダヤ人たちは神殿を作るのに人の手で46年もかかったなどと言って建物にこだわっています。人の手で作ったと言って神殿機構も手中にあると考えています。主はあくまでも「わたしの父の家」の再建だと言われるのに悟りません。ヨハネ福音書はそこの所を強く訴えるために言葉を選んでいます。19節の「建て直してみせる」と20節の「建て直すのか」はどちらも「起こす(直訳)」という言葉が当てられています。この語は受難物語のなかでは「復活する」と訳されます。22節の「イエスが死者の中から復活されたとき」も同じです。主はご自分が復活されるとき、父の家を再建するとおっしゃっています。また、14節の「神殿」と19節の「神殿」は別の言葉です。19節の方は「至聖所」です。ユダヤ人たちが建物や権益にばかり心を向けているので、商売の家と化した神殿をを至聖所に変えるとおっしゃいました。ご自分の十字架と復活によってご自身が至聖所になることを言われるのでした。この直前で水を良いぶどう酒に変えられたことと重なります。人の心を良きものに変えてくださる主を信じたいと思います。
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