札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
救いの希望を兜とし
テサロニケの信徒への手紙一 5章1節〜13節
牧師 堤 隆
 6月24日礼拝説教より
「教会の声」説教(2018年7月号)

 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。
 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。結びの言葉兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「その時と時期については」と言って5章は書き出されていますが、これは4章で主の再臨を語ったことを受けています。わたしたちは主の再臨を信じて生きるにも死ぬにも希望があると語られました。それなら再臨はいつかが気に掛かるだろうというので語り出されたのが5章です。「盗人が夜やって来るように〜妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで」とたとえられます。盗人のように、陣痛のようにというのは、どちらも突然であることをたとえています。同じたとえを重ねているのではありません。違いがあるので二つたとえが置かれている。盗人の突然の訪れはだれも歓迎しませんが、陣痛の突然の訪れは歓迎しますように、主の再臨も歓迎する人もいれば歓迎しない人もいるということがたとえられているのか?どうもそうではなさそうです。盗人は突然にといって人には分からないことをたとえ、陣痛の突然では神様には分かっていることがたとえられているのではないか。だとすれば、盗人の来訪は人にとって突然であることを、陣痛は神の必然を言っていることになります。主の再臨は人には突然であるけれども神には必然である。だから、主の再臨は希望の根拠となる。

 それにしましても、普段の生活においてわたしたちは突然のことには慌てるのではないでしょうか?突然の来客があると困る。家の中が散らかっている。おもてなしの用意が無い。そうなったら、もうお手上げです。そのように困ることがないようにするには、普段から家の中をよく掃除し、お茶菓子なども備えておけばいいのですがなかなかできません。いつも準備万端とはいきません。我が家などでは孫たちが来れば散らかし放題になりますし、とって置いたお茶菓子なども与えてしまいます。そんな最中に来客があればたちまち困ってしまいます。そうなれば、玄関さきでということになります。もちろん、主は突然やってこられてわたしたちを困らせるというたとえではありません。パウロは玄関前ではなく、「さあ、お上がりください」といって主をお迎えできる方法を教えています。「兄弟たち〜兄弟たち」と繰り返してわたしたちが主の兄弟であることを思い出させています。わたしたちは主が突然やってこられても、兄としてお迎えすれば良いのだと申します。「玄関だけで」と言わなくてもいい。兄ですから、お客さん扱いしなくてもいい。「どうぞ、お上がりください」と言える。だからといって、放ったらかしでいいはずはありません。愛する兄を迎えるのですから、日常のありのままの暮らしの中にであっても、こころから喜んで迎えます。

 それで、再臨の主をお迎えするために「身を慎んでいましょう」(6節)と勧めます。いつ来ていただいてもいいように、眠り込まずに目を覚ましているようにするためです。「身を慎む」は意訳です。ここは「しらふでいましょう」と書いてあります。酔っぱらって眠り込んでしまわないように、目を覚ましていつでもお迎えに出られるように、しらふでいましょうと勧めます。パウロと同世代のペテロも「いつでも心を引き締め、身を慎んで」と言っています。吠え猛る獅子が徘徊するような迫害の中での身の処しかたとしてこう言いました。

 今のわたしたちは、パウロやペテロたちのように迫害されていませんけれども、眠り込んでしらふでいられなくなることはあります。辛ければ現実に目をつぶる。反対に何があっても自分だけは大丈夫だろうという根拠のない自信に酔う。パウロはそんな無防備なことではいけないから、武装しようと訴えます。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜として」(8節)と言います。武装といいましても剣や槍を持つのではありません。胸当ても兜も防具です。敵をやっつけて希望を勝ち取れと言うのではなく、すでに与えられている希望を守れを言います。「救いの希望」とは主の十字架と復活によって与えられたものです。「目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになるため」(10節)です。寝ても覚めてもなら、生きるときも死ぬときもです。床に入って寝てしまえば無防備ですが、わたしたちは「希望の兜」が寝ていても防具となります。

 

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