「私たちは絶えず神に感謝しています」は、1章2節に続いて二度目です。パウロの「神への感謝」はバロック音楽の通奏低音という伴奏に似ています。神への感謝がいつも響いています。パウロはこの手紙だけでなく他の手紙でも、神への感謝を真っ先に記しています。信仰者に限らず教会の根底に神への感謝が通奏低音として響いているからです。1章では祈りにおける神への感謝を語り、この2章では礼拝説教について神への感謝を語っています。わたしたちの日々の祈り・主日礼拝が神への感謝という通奏低音になり、わたしたちの暮らしを低い所から支えるものとなっている。特急列車ではなく普通列車で行きますと、一駅も欠かさず止まります。わたしたちは一つも欠かさず神への感謝を捧げる普通列車の旅を続けています。毎日が神への感謝で繋がる連鎖の日々になります。退屈な同じことの繰り返しのように思える毎日であっても、われわれキリスト者には神への感謝の連鎖の日々です。
それは、みことばが「あなたがたの中に現に働いている」(13節)からだと申します。「あなたがたの中でエネルギーとなっている」と書いてあります。みことばを聞いて受け入れるとそれを信じる者のエネルギーになる。現にテサロニケ教会の人々は困難の中でみことばをエネルギーにして歩んでいました。パウロはそこに目を見張っています(14節)。「兄弟たち、あなたがたもまた同胞から苦しめられた」。この兄弟は「神に愛されている兄弟」(1:4)です・御子イエス・キリストに注がれているのと同じ神の愛で愛されて兄弟とされています。それだけで、神様に感謝できます。「あなたがたも」と言って、テサロニケ教会もエルサレム教会同様にと言っています。教会も他の教会に倣って、主に倣う教会になる。信仰は連綿と引き継がれ連続していくものであることに注目しています。パウロはかつて、その教会迫害者でした。自身が悔やむだけでなく生涯教会の中で非難され疑われ続けました。それだけに、テサロニケ教会が同胞から苦しめられたことに、敏感にならざるを得なかったようです。テサロニケ教会は苦しめられても、「キリスト・イエスに結ばれている神の教会」になりました。それは、キリスト・イエスが罪人を愛して、かえって罪人に苦しめられたのと同じ目に遭うことでした。そうして「神に愛される兄弟」とされていきました。それを、パウロは神に感謝しています。
苦しめられたことで、神に感謝するといっても、自虐的とか苦しみが自分を鍛えるからではありません。迫害されることは修行ではありません。迫害は迫害でしかありません。苦しみに意味はない。苦しめられることは、誰も好みません。今のわたしたちは迫害されて苦しめられることはまずありません。しかし、この国ではつい70数年前に教会は迫害されました。わたしは、いつかまた迫害されるぞと脅しているのではありません。キリスト者であることと苦しむことは無縁ではない。パウロはそう言います。実際、誰かのために労苦する経験を持つ人は、こんな苦労はもう御免だと思っておられるのではないでしょうか。しかし、一人で孤立するのでなく、誰かと一緒に生きるなら労苦せざるをえません。教会も例外ではありません。教会は苦労の無い人の集まりではありませんし、ひとに苦労をかけたことの無い人だけが来るところでもありません。むしろ、ひとのために労苦することを身につけるところだとわたしは思っています。神様に愛され兄弟とされているからです。キリストの労苦の一端を担うところが教会です。教会にきたのだから、自分の苦労をだれかが負ってくれて当然だというのでは、みことばを聞いて神に感謝することにはなりません。わたしたちはキリストの愛の一端を担うキリストの弟、妹にされましたから、キリストの労苦の一端も担います。
それで、キリストに倣わない者は「異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げている」ことになる。教会でキリストに倣うことを身につけなければ、救いを妨げてしまう。パウロは神の怒りとまで言います。兄弟を愛さず労苦しないで、キリストの愛を拒むことのないようにと訴えています。
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