札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「聖なる公同の教会」
使徒言行録6章1節〜15節
牧師 堤 隆
 6月4日主日聖霊降臨日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2017年6月号)

 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
  さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 最初の聖霊降臨日に教会が生まれた「そのころ、弟子の数が増えきて〜苦情が出た」といいます。教会は発足するとすぐに問題を抱えました。この「苦情」は「つぶやき」とか「不平を鳴らす」とも訳しうる語です。陰でつぶやき、不平を鳴らすのですから、やっかいです。この世の人間集団と変わりませが、使徒言行録はそれを隠しません。理想の教会ではあってはならないことと無視したり、その不平に耳を貸さないようなことをしなかったためと思われます。むしろ、この教会内の苦情をどのように乗り越えていったかを伝えようとしています。
 不平つぶやきの理由は「日々の分配のことで仲間のやもめが軽んじられていた」ことでした。身よりもなく働くにも仕事がない不利なやもめを教会は援助していたのに、苦情が出てしまいました。小さく弱い者の毎日の食事を世話することは、決して小さなことではありません。「日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈ったら、パンが降ってくる訳ではありません。祈った皆で、糧に与れない者のために努力しました。しかし、そのように祈ったことが軽んじられる深刻な事態を抱えました。同じユダヤ人同士でも日常語の違いで意志の疎通がうまくいかなかったのかもしれません。
 12人は弟子たちすべてを集めました。教会の中のつぶやきを無視したり圧殺しませんでした。主から託された教会の難しい問題に真正面から取り組みました。これは世の人間集団と違うところです。問題の根本は「日々のディアコニア」(「日々の分配」の直訳)にありました。ディアコニアはボランティアではありません。神様への奉仕です(今日の執事職の語源)。使徒たちは、ディアコニアに問題の本質を捉えたました。「わたしたちが、神の言葉をにがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」と申しました。もちろん、食事の世話などという一段低い仕事に煩わされたくないと言ったのではありません。教会の務めに上下優劣をつければ、その途端にディアコニアでなくなってしまいます。「神の言葉をないがしろにして」は「後回しにして」と書いてあります。みことばを後回しにすることは「喜ばしくない(「好ましくない」の直訳)」し、食事のディアコニアを軽んずることもできません。両方とも、主からの御委託だからです。
 それで、霊と知恵に満ちた兄弟7人を選んで、その仕事を任せることにしました。すると、この提案は一同を「喜ばすこととなりました」(「賛成し」の直訳)。主の御委託に答えるディアコニアは、喜んで賛同し喜んで奉仕するものであることがここから分かります。その点では「祈りと御言葉の奉仕(ディアコニア)」も同じです。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数は〜非常に増えていき」ました。「広まり」は「成長し」と書いてあります。みことばが、みことばへのディアコニアと食事のディアコニアによって成長していきました。
 しかし、やっと難問を乗り越えた矢先に、またもや困難が訪れます。選ばれた7人のひとりステファノが「恵みと力に満ち不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」ことが、ユダヤ教徒の標的にされてしまいました。教会のディアコニアは教会の外にまでその力を発揮していたことになります。信仰はわたしたちの心の中でけ、教会の中だけのものではなく、この世にも通用するものであると使徒言行録は申します。ユダヤ教徒はステファノに歯が立たないと見るや、人々を唆しました。「扇動して」とも、「偽証人を立て」とも言われています。これは、主イエスの御受難の時とそっくりです。使徒言行録は意識的に重ねて書いているふしがあります。ステファノは主に従ったがために主と同じ仕打ちを受けたのだと言いたいようです。「その顔はさながら天使の顔のように見えた」といいます。伝道の困難の中でそれでも主を証する者は天使の顔を与えられる。贔屓目に見てではありません。裁いている者たちの目にそう見えました。ステファノの顔=信仰は、「聖なる公同の教会」を写し出していました。聖霊降臨日のこの日、わたしたちも聖霊を受けてステファノに続く者とされたいと思います。
 

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