札幌北一条教会
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今月のみことば | |
「行って、あなたも同じようにしなさい」 |
ルカによる福音書10章25節〜37節 | ||
牧師 堤 隆 | ||
11月29日 待降節第一主日礼拝説教から |
「教会の声」説教(2015年12月号) |
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 |
今年の待降節をどの聖書を読んで守ろうかと思案し、礼拝祈り会委員会とも相談をいたしまして、これまで読み進めて来ましたルカによる福音書をつづけて取り上げることにしました。これまで毎年待降節になりますと、連続講解説教を中断しまして、いわゆるクリスマス物語を読んで礼拝を守ってきました。そんな中で、わたくしは主を待つこと、主をお迎えすることはクリスマス物語に限ったことではなのではないかと考えるようになりました。そこで他の聖書の箇所からも読みとれるはずであると信じて挑戦することにしました。
それで、待降第一主日に善いサマリア人のたとえを読むことになりました。主に永遠の命についてお尋ねした律法家に話されたものです。追いはぎに襲われた人は言うまでもなく、祭司・レビ人も追いはぎも悲惨な中にある人々でした。祭司は半殺しにされた人のところに「来た〜見ると〜通って行った」(31節)のですが、これは追いはぎに通じます。追いはぎが、「半殺しにしたまま立ち去った」(30節)のと全く変わりありません。主はこのたとえ話で、追いはぎ・半殺しにされた人・祭司レビ人はみな悲しい者たちであるとおっしゃっているように聞こえます。その上で、これらの悲惨な人々のただ中にただ一人そんな人々とは一線を画す「あるサマリア人」が現れます。人間の悲惨を無関係な人ではありません。むしろ、人間の悲惨のただ中に来て・見て・近寄っています。この「あるサマリア人」は主イエスのことであることはだれでも分かります。わたしたちはここに待降節に地上に向かってくださった主のお姿を見て取ることができます。主ご自身がこのようにして来たとおっしゃっているように読めます。 ルカはこれは主のことであるとズバリ一言で明言しています。このサマリア人の「憐れに思い」という所です。これは一語で、内蔵の「腸」に通じるものです。それでここは「はらわた痛む」と訳れたりもします。まさに断腸の思いです。ルカ福音書ではこの語は普通の人には用いられません。はらわたを痛める人は常に主イエスです。これまでににもすでに出てきています。一人息子が死んで天涯孤独になってしまった母親を主は憐れに思われたとありました。これは可哀想に思われた以上のことでした。このとき主ご自身が痛んでしまわれました。主は人間の悲惨の現場に来てそれをご覧になると、ご自身が痛んでしまわれる。だとすれば、半殺しにされた人とはまさにこの律法家のことではないかと思われます。主は律法の専門家でありながら律法が読めないこの人のことを冷たく専門馬鹿と退けてはおられない。律法(聖書のみことば)に生きられないこの人を見て、憐れに思ってくださった。主はご自分をサマリア人にたとえておられます。ユダヤ人にとってサマリア人は隣人ではありませんでした。主はこのときユダヤ人が設けた隣人の境界線を乗り越えてしまわれたことになります。これはたとえ話の中だけのことではなくて、すでに経験なさった実際のことから来ています。サマリアの地を通られるときに主はサマリア人から受け入れられませんでした。ユダヤ人とサマリア人は差別し合っていたからです。そんなところに主は実際に身を置かれました。ですから、隣人を自分のように愛することが切実なものであることを身をもってご存じでした。自分が困ったときに人から何をしてもらいたいかがよく分かる。だったら、人が困っていたらそのとおりにしてあげる。 このたとえ話のあとで隣人とだれかと問われた律法家は「助けた人です」=「憐れみを行った人です(直訳)」と答えました。このたとえ話によって主に寄り添っていただいた律法家は憐れみの実体を知らされるところとなりました。自分が愛せるのは、主に憐れまれているからということを初めて知りました。それで主は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。「憐れみが分かったならあなたにも出来る」と言ってくださいました。サマリア人のしたことは愛の大事業でも難しいことでもありません。自分の出来ることをしています。この主の励ましのおことばに信頼して、わたしたちも憐れみ深い者とされて待降節を過ごしてまいりたいと思います。 |