札幌北一条教会
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今月のみことば | |
「ここに連れて来なさい」 |
ルカによる福音書9章37節〜43節 | ||
牧師 堤 隆 | ||
10月18日 教会創立記念日礼拝説教から |
「教会の声」説教(2015年11月号) |
翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。 |
山上の変貌、山の下での弟子たちの失敗、受難予告をルカは切っても切れない一連の出来事であると報じています。主イエスの栄光と十字架の真ん中に本日の出来事が置かれています。主は栄光の内にエルサレムでの最期を遂げると話されたのですが、この「最期」はエクソダスと書いてあります。出エジプトの事もエクソダスと言います。出エジプトに匹敵する脱出、「人の子は人びとの手に引き渡されようとしている」新しい出立が始まる。「信仰のない、よこしまな時代」からの脱出・出立の出来事が本日の聖書には記されています。 主は「なんと〜」と言っておられるのですが、これは病気の子どもを連れて来た父親のことを嘆かれたのではありません。「あなたがた〜あなたがた」と言われています。癒しに失敗した弟子たちだけのことでもなさそうです。「時代なのか」と主はおっしゃっています。もちろん、無責任な評論家のように「時代が悪い」などと言われるのではありません。この「時代」と訳される言葉には「生まれてきた者」(直訳)です。 時代の人びとといってもよい。今、生きている人びとのことです。父親も弟子たちも群衆もです。それなら、みんな不信仰でよこしまな者たちだと言って主はなで斬りになさったのかというとそうではありません。ここは単なる嘆きではありません。「なんと」という言葉で始まっていますから、嘆きとばかりに聞こえてしまいますが、ここはそのまま発音すると「オオ」となります。日本語の感嘆詞も「おお」で、音は同じです。ルカは使徒言行録の著者でもありますが、言行録1:1で「おお、テオフィロさま」と書き出しています。ルカは悲痛な嘆きの時だけでなく大切な人に呼びかけるときにも「オオ」と言います。そうしますと、9章41節で「おお信仰のない、よこしまな時代の人々よ」と言われるのもこれらの人々を大切な人々として呼びかけられたものと思われます。ここは直訳しますと「不信仰で、ねじ曲げられてしまって今生きている者たち」となります。主は大切な者たちがこんな有様であることに目を留めて心痛めて憐れんでおられます。自分でよこしまになったのではない。ねじ曲げられて不信仰になっている。だからそんな者たちを、憐れまれました。それは次の主のことばにも窺えます。「いつまであなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。これでは、何か主が堪忍袋の緒が切れると言っておられるように聞こえてしまいます。しかし、そうではありません。これこそ、不信仰でねじ曲げられてしまっている人びとへの憐れみのことばです。「我慢する」というところは、英語で言えば「ホールド アップ」です。西部劇でピストルを突きつけて言うセリフと同じです。勿論、主は脅しに掛かっておられるのではありません。手を上げる姿勢のことを言っておられます。下から支える姿です。いつまでも手取り足取りで支えることは出来ない。直接に手で下から支え続けられなくなる。時間が迫っている。・・・エルサレムで十字架に架かることになられるからです。 しかし、憐れみの心は変わることはない。それで、「ここに連れて来なさい」と言われました。「ここに」、それは主と弟子たちがいた場所のことばかりではありません。「いつまで〜あなたがたと共に」いられようかとおっしゃっています。十字架の後、主は天に戻られる。それなら、「ここ」とはどこか?・・・主の憐れみが示されるている「ここ」以外にありません。それは既に示されています。山上の変貌の時に姿形は見えなくなってもみ子のことばを聞き続けるようにとの天から声が聞こえました。みことばを聞くことが出来る「ここ」です。まことに主が語ってくださり、それを聴き続ける「ここ」。即ち、真のキリストの教会以外に「ここ」はありません。わたしたちの教会も主の憐れみが注がれる栄光ある教会とされ続けたい。そのような教会に苦悩や理不尽を抱える人びとを連れて来なさいと主は言ってくださいます。その時、わたしたちの教会にも驚嘆するばかりの救いが引き起こされます。教会建設記念日の今日、新たな主招きに応える志を立てたいと思います。 |