札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「訪れ給う神」
ルカによる福音書7章11節〜17節
牧師 堤 隆
 6月28日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年7月号)

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



  「くっついて起こった(直訳)」が11節の語り出しです。時間経過や場所移動よりも、出来事・事柄の密接さを言っています。この前の百人隊長の僕のいやしとナインのやもめの息子を生き返らせることは「くっついている」とルカは申します。いや、くっつけられたと言いたいようです。死にかかっているのと死んだのとでは大違いです。そこには断絶があります。それを主はくっつけてしまわれたと言って、ナインでのことを報じています。
 主はどのように生と死をくっつけられたかというと、「棺が担ぎ出される」のを止めることによってでした。当時、町の城壁の中は生者の領域で外は死の領域と考えられていました。それで、この葬列は生者と死者を分かつものでした。しかも、この葬列は普通とは違っていました。親の葬儀をこどもが出すのが普通ですが、親がこどもの葬儀を出しています。死んだのは一人息子でしたし、その親は母一人でした。母はやもめであったとありますから、夫とも死に別れて一人息子を育て上げたようです。この母子はようやくこれからというところにこぎ着けていました。その矢先に母にとって唯一の望みであった一人息子が死んでしまった。絶望のどん底に叩きつけられてしまいました。「町の人が大勢そばに付き添っていた」といいますが、この「町の人」というところは「町の群衆(直訳、11節と同じ)」と書いてあります。みことばを満たされた「民(1節)」とは区別される群衆です。ルカはみことばを理解しない烏合の衆をこう呼びます。みことばを満たされていませんから、付き添ってはいても本当の慰めのことばをかけられずにいました。しかし、主は「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われ」ました。この「憐れに思い」は、ルカ福音書では善いサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえに出てきます。神様の憐れみを言い表して、「断腸の思い」に匹敵する語が当てられています。
 主の憐れみのことばは「もう泣かなくともよい」でした。もちろん、泣き止めと無理強いなさるのではありませんでした。「もう嘆かなくともよい」と言われるのでした。主は生と死を分断する葬列を止めてしまわれました。当時、遺体に触れると汚れるとされていましたのに、「棺に手を触れ」て止められました。それほど堅い決意をもってでした。これは象徴的です。主はわたしたちが死んでも手を離されないことを象徴しています。ですから、霊魂不滅などという人間の考え出したことで慰める必要はありませんし、死んだら何もないという唯物論にねじ伏せられることもありません。
 主は葬列を止め、母親に「もう泣かなくともよい」と言われますと、次に一人息子にことばをかけられました。「起きなさい」と。「目を覚ませ」と言われた。主イエス・キリストが来られたからには、死はもう眠りでしかない。ですから、生と死は分断されたところから、「くっつけ」られています。そうして、「イエスは息子をお返しになった(与えた=直訳)」。母親を絶望の中から救い出し、一人息子という望みをお与えになりました。ここでもみことばが先行しました。それを強調するように「大預言者が我々の間に現れた」との讃美が生まれたとルカは報じます。預言が廃れた時代と思われていました。しかし、「大預言者が我々の間に復活した(直訳」)と言って神を賛美しました。主イエスこそみことばの復活だと信じたからです。
 続く賛美のことばは「神はその民を心にかけてくださった」でした。神は民を見そなわし給うた。ちょっと振り向いて一瞥なさったのではありません。ルカ福音書では同じことばがザカリアの預言の中に繰り返し出てきてきました。いずれも「訪れて」と訳されています。孤独や死に圧倒されてしまい、ルカ言うところの「群衆」と化してしまっている者たちを神は訪れてくださる。ザカリアは預言しました。「神の憐れみの心〜憐れみによって〜訪れ(1:78)〜暗黒と死の陰に座している者たちを照らし(1:79)」と。このザカリアの預言が主イエスに於いて成就しているとルカは申します。わたしたちを訪れて救ってくださる主イエスを信頼してお迎えしたいと思います。
 

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