札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「自分を喜ばせることなく」
ローマの信徒への手紙15章1節〜13節
牧師 堤 隆
 10月26日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2014年11月号)

 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  1節の「自分の満足を求める」と2節の「隣人を喜ばせ」とは、動詞は全く同じです。更に3節の「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」というところも同じです。全て「喜ばせる」という動詞です。自分を喜ばせるべきではない、隣人を喜ばせなさい、キリストも御自分を喜ばせなかったのだからと、畳みかけています。どうしても、自分を喜ばせたいわたしたちの実状から云われています。意外にも、信仰の強い者のほうが自分を喜ばせてしまう傾向が強いと指摘しています。妙な言い方になりますが、強い者の弱点を指摘しています。それで、「強くない者の弱さを担うべきである」と云います。自分は信仰の本質でないところにはこだわらない。信仰の本質ではないところにこだわるのは、信仰が弱いからだと冷ややかに見る。弱い人が何かを云えば、見下したり見切りをつけてしまう。それは強い者の弱点だと申します。だから、「強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」と勧めます。この「担う」という語は、十字架を背負うと言うときに用いられます。重荷を負うという意味合いが強い語です。出来る人が出来ない人を担うのは簡単ではありません。重荷を担うことになるからです。本質的ではないことにこだわる人に、「何でそんなつまらないことにこだわるのか」と云ってみても、相手は納得しないと思います。何かを注意されているのだなと感じて恐縮はするかもしれませんが、それで本当に自由になれるかどうかは疑問です。だから、「担うべきである」とパウロは云います。弱い人が些細なことにこだわっているなら、あなたこそ些細なことにこだわらずに、その弱い人を担ってしまえと云います。
 それでは、「強くない人の弱さを担う」とは、どうすることなのか。ただ、黙ってじっと見ている、こっちが我慢するというだけではないはずです。弱い人の弱さを担うとは、その弱い隣人を喜ばせることだと云います(2節)。弱い人を見下して、自分を喜ばせることをしない。弱い人を「隣人」として遇する。どのようにしてか。「出来ない人」に「出来なくても、そのままでいいから」と言って弱さに居直らせるのではありません。それでは弱い人にとっても、本当の喜びにはなりません。せいぜいぬか喜びです。ですから、弱い人をただおだてるのでもありません。おだてられてうれしいだけでは、本物の喜びになりません。弱い人を隣人として喜ばすのは「われわれのおのおのは、隣人を喜ばせなさい。建て上げることに資する善いことにいたるように」(2節、直訳)するためです。おのおの建て上げるとは、互いの向上だけのことではありません。聖書はいつも、教会を建て上げることをこう云います。信仰の弱い隣人も、教会を建て上げるための大事な一員であると、当の本人の心底分からせる。それが、弱い隣人を喜ばせることになる。お荷物なってはいないかと心配しなくてもいい、逆に弱い自分を教会は受け入れて当然であると居直らせない。自分のような者でも、教会を建て上げるための大切な一員とされていると分かったら、これに勝る喜びはありません。
 3節はその根拠を語っています。原文では「なぜなら」と云って始まっています。「なぜなら、キリストも御自分を喜ばせられなかったから」です。弱い隣人を喜ばせる理由・根拠がここにある。自分の寛大さ・寛容では、とても弱い隣人を喜ばせることなどできません。すぐに底をついてしまします。自分を喜ばせることなく弱い隣人を喜ばせるのは、キリストがそうなさったからだと云います。旧約聖書にあったようにキリストご自身に「あなたをそしる者のそしりがわたしにふりかかった」(3節)のでした。神をそしり、罪の虜になっていた者を、キリストは御自分の十字架という身代金を払ってあがなってくださいました。キリストが御自分を喜ばせることなく、罪人を救い出してその罪人に喜びを与えてくださいました。
 教会はこのキリストの十字架によって、救われた者たちの共同体です。だからもう、だれひとり自分で自分を喜ばせることはしません。「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続ける」(4節)よう祈り求めたいと思います。

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