二人の弟子の心痛の深さに注目します。甦りの主が二人に近づき、一緒に歩き始められ、声までかけられました。このとき、二人は主のお顔を見ていたはずです。お声も聞いていた。お顔もお声も十字架前と変わりなかったはずです。おまけに、このとき、二人は「イエスは生きておられる」という情報を受け取っていました。それなのに、復活されたと知らされている当のお方のことが、二人には分からなかった。そこまで、絶望に塞がれていました。実際に肉眼で見えなかった、耳に聞こえなかったのではありません。心の目が閉ざされていた。わたしたちも、僅かな悩みでも抱えますと、ぼんやり考え込んでしまいます。電車に乗っても、景色や人の顔は見えているはずなのに、ぼんやりして見ていないことはいくらでもあります。乗り合わせた知人に声を掛けられて、はっとすることもあります。ふたりは、これのもっと深い状態にあったものと思われます。
こんな二人に主イエスは何をなさったか。近づき、一緒に歩き、声を掛けられました。それなのに主が生きておられることに気づかない二人でした。絶望のあまり心痛める者には、これだけのことをしていただいても心の目は開きませんでした。イエス様のあの懐かしいお顔、あのお声を、見ても聞いてもなお心の目は閉ざされたままでした。主もそんな二人の正面に回り込んで、わたしの顔をよく見なさいとはおっしゃいませんでした。生前の思いで話しをして、あのときはこうだった、ああだったと言って記憶を甦らそうともなさいませんでした。主ご自身がそのようにして気づかせようとは思っていらっしゃらない。主が二人に近づき一緒に歩かれたのは、何よりも二人がどんな状態にあるかをお尋ねになるためでした。どうしているのかと心配をして近づいてくださいました。ところが、二人は逆にあなたは分かっていないなあ、もう絶望なんだよと言った。そんな二人に、主は「そんなに心を痛めているのか」とはおっしゃらず、「物わかりが悪く、心が鈍い」とおっしゃいました。「心が鈍い」は「心が遅い」(直訳)です。こころがゆったりしていると言われるのではありません。心を開くのに遅い。心を向けることにのろまだと言われた。絶望し心を閉ざし、もう何にも心が動かなくなっている二人を何とかそて心開こうとなさいました。ここに、主のお心が溢れだしています。
「イエスは、なおも先へ行こうとされる様子だった」(28節)のは26節に関わりがあります。栄光に向かってなおも進んでいこうとしておられた。それを二人は引き留めました。そのとき主がなさったことは、泊まり客がするようなことではありませんでした。ホストがすることでした。主客転倒が起こっています。あの何千人もの人を荒れ野で養われたときとそっくりです。また、二人が居合わせたかどうか分かりませんが、最後の晩餐の時と同じでした。ただの夕食ではない。これに招かれて二人は心の目を開かれました。すると、「その姿は見えなくなった」(31節)といいます。ここは誤解無く読みたいと思います。折角目が見えるように開かれたのに、主ご自身のお姿が見えなくなったというような、意地悪なことが起こったのではありません。確かにお姿は消えました。しかし、心の目が開かれましたから、肉眼で見るお姿が消えても、心の目で見えていました。その心の目が見えることを言うのが、「心が燃えた」(32節)です。主が自身が語り掛けてくださったときに心が燃えた。甦りの主との出会いが心を燃やす。
みことばの火が心に灯されますと、二人は「即座に立って」(33節直訳)出かけています。「暗い顔をして立ち止まった」のとは、まるで対照的です。生きておられる主イエスのいのちは、絶望している者を生かすいのちです。この命の火が灯されて、二人は即座に立ち上がりました。戻ってみますと、「主は復活して、シモンに現れた」(古代の教会の復活信仰定式)と皆が言っていました。わたしたちも、教会に戻って来ては、甦りの主から語り掛けられ聖晩餐に招かれて、心を燃やされたいと思います。鈍い心、痛める心を癒され続けたいと思います。
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