罪という主人に責任を擦り付けて、奴隷のわたしはいかんともしがたかったと言い逃れをしようとする。パウロはそうは言えない、自分の方から献げたのだからと言って反論を封じます。罪の奴隷とされていたら、罪という主人に強制されて罪を犯さざるを得ないなどとは言わせないときっぱりと打ち消します。罪に留まっていたら、罪を犯そうということになり、自らを罪に献げることになる。それで「死に至る罪の奴隷か、義へと至る従順の奴隷か、どちらかでしかない。」(16節私訳)と申します。どっちを取るか、五分五分、それはあなたの自由だと言うのではありません。罪の奴隷になるなら、全く罪に責任を帰すことはできない。自らを罪に献げて奴隷になるのだから始末が悪い。「自分から罪の奴隷になるなんて」と、ここまで語ってきて、急に17節で「しかし、神に感謝します」と言い出しました。これは、叫びに近いようです。「やっぱり、神に感謝」と叫んでいる。どうして「感謝」と叫ぶのかというと、「伝えられた教えの規範を受け入れ」(17節)たことだ言います。この「受け入れ」と訳されている語は「引き渡す」が原意です。十字架に引き渡すと言うときに当てられます。ここは「あなたがたが、引き渡された教えの型へ」となります。神様がなさったことを言っています。神様が罪の奴隷を取り上げて、ご自分の教えに引き渡された。そうして、罪の奴隷をご自分の奴隷とされた。自らを罪の奴隷として献げてしまう者を、神はご自分の奴隷へと引き渡してくださった。それで、パウロは「やっぱり、神に感謝」と叫ばずにおれませんでした。
そこで更に、神に感謝すべきことを18節で確認しています。「罪から解放されて、義に奴隷とされている」(直訳)。普通ですと、罪から解放されたら、「自由となりました」と続くところです。それを義の奴隷とされるに至ったと言います。16節で「どちらかなのです」と言ったことをここで確認しています。もちろん、今では義の奴隷とされていることを感謝しています。罪から解放されて、神からも解放されたのではありません。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」(19節)の「分かりやすく説明している」は、「人間的に言っている」(直訳)と書いてあります。俗な言い方をしているというのではありません。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、人間的に言っている」。肉の弱さを持つ人間について語っているとパウロは申します。そして、19節で「献げる」ことを言います。「汚れと不法に奴隷として献げて、不法に至ったように、それと同じように義に奴隷として献げて聖化に至るように」(私訳)と申します。自ら罪の奴隷になっている弱い人間が、神様によって義の奴隷へと引き渡されたのだから、この上は義の奴隷として聖化へと向かわせていただく。罪の奴隷であった時には義に仕えなかった。そこには義の実りはなく、死へと結実するばかりであた(21節)。これに対して神様によって義の奴隷へと引き渡された今は、「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」(22節)。聖化へと実を結ぶように歩ませていただいている。
20節と21節には、日ゆる「聖化」のことが、語られています。聖化は、自分で自分を聖めるのとは違います。自分の成長する力では得られない。22節と23には「永遠の命」が語られていますが、「死なない命」のことではありません。神様によって聖別されて(神様から別扱いされて)神の所有とされた命を「永遠の命」と言っています。ですから、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(23節)「罪が支払う報酬」に対して永遠の命は報酬ではないといいます。この「報酬」は元々、兵士の給料のことを言う語が当てられています。命がけでようやく手に入れるのが兵士の給料です。しかし、永遠の命は賜物です。義の奴隷とされて、神様からの命を賜って、神に感謝と喜びの叫びをあげつつ歩んでまいりたいと思います。
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