「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして」(1節)とあります。こえは、子供の使いとは違います。直訳すれば「二人を遣わし」となります。そして、これと全く同じ言い方が既に6章7節に十二人の派遣として出てきました。「二人ずつ組にして遣わす」というところですが、ここも直訳すると「二人、二人遣わす」となります。この「遣わす」はお使い程度のことを言うのではありません。第一義的には「使命を負わせて任地に遣わす」というときに、使われます。6章では十二人は宣教という使命を負わされて派遣されました。そのときの「二人を遣わす」という言葉をそっくりそのままこの11章でも用いられています。二人はろばの子を連れて来るよう主に命じられました。それぐらいなら子供でも出来そうなことです。それを宣教への派遣と同じ言葉で命じられました。ろばを連れてくることがどうしてそんなに重要なことであるのか。徒歩ばかりの旅で、疲れてしまわれてもうご自分の足ではエルサレムまで歩けなくなってしまわれたのかというと、そんな様子は見受けられません。それに、旅の足としてのろばでしたら、「まだだれも乗ったことのない子ろば」とは言われなかった思います。何の用途にも用いられていない必要があったのですが、ではどんな用途のために子ろばを必要とされたのか。「主がお入り用なのです」(3節)と言われています。この「主」とはだれか、。ここは「自分たちの主人がお入り用なのです」と読めます。二人の主人のことです。
「弟子を遣わしている主人がお入り用なのです」と主イエスは言わせておられます。「エルサレム〜オリーブ山」においてです。これは「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」という
ゼカリヤ書の託宣に関わりがあるようです。主イエスはこの託宣を実現なさりたかった。ゼカリア9:9に「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。みよ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。この姿を再現するために主は子ろばを必要とされたものと思われます。
この「ろば」が象徴するのは「高ぶることなく」ということだとゼカリヤはいうのですが、こう訳される元の言葉には「身をかがめる」という意味があります。ゼカリヤの時代から救いは神様が身をかがめてやって来てくださるところに始まると言われていた、それを主は体現してエルサレムに入ろうとなさいました。神様が身をかがめたもうのは、相手が低いところにいるからです。神様は低きにいる者を決して見下されない。主はこれまでに受難予告で繰り返しエルサレムで十字架に架かると語られました。十字架刑に処せられる罪人の低さにまで下りたもう神が、主イエス・キリストです。
身をかがめたもう神が、他でもない子ろばに乗った主イエスであることに、このとき弟子たちも、エルサレムの人々も気づいていませんでした。そんな中で、唯一知っていたのはこの直前で主によって癒されたバルティマイでした。主に呼ばれ主の御前にでますと、バルティマイはもう主のことを「ダビデの子」とは呼ばず、「先生」(10:51)と呼びました。これは「教師」という意味の「先生」ではありません。「ラビ(大きい人)」です。そのまま発音すると「ラボニ」となります。主の復活の朝、空になったお墓の前に佇むマリアに復活の主がご自身を現してくださいました。そのとき、マリアが呼びかけたことばが、ラボニ(わたしの大きな方)です。バルティマイは道ばたという低いところに座って物乞いをしていました。そんな低い自分のことを呼んでくださった方をラボニと呼びました。低い自分のことを聞きつけて、身をかがめてくださったとの思いを込めてラボニと呼びました。バルティマイは実質的に主イエスをこのわたしに身をかがめたもう大きな方と受け止めていました。そして「なお、道を進まれるイエスに従った」(10:52)のでした。ですから、バルティマイはその開かれた目で子ろばに乗られる主を見ていました。わたしたちも、身をかがめたもう主をラボニと呼んで従ってまいりたいと思います。
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