マルコ9章のいわゆる「山上の変貌」は、出エジプト記のシナイ山での律法授与によく似ていると言われます。それ故に、マルコが旧約聖書を用いて創作したのではないかと想像を逞しくするむきもあるようです。これは
福音書以外では、ペトロの手紙U T章16節〜18節にも報じられています。このとき、山に連れて行かれたペトロ自身の証言として描かれています。こういう不思議な光景は偉人伝説のスタイルに則って描かれることが多いのですが、Uペトロにはその偉人伝説的要素が少ないと言われます。伝説という要素よりも、証言ということが全面に出ています。これらのことを考え合わせますと、やはり、この出来事は実際にあったことと考えられます。
ペトロはこのとき、御こころによって弟子団は導かれていくのであることを常に明らかにしていく務めを負わされました。しかし、このときのペトロは不思議な光景にばかり見とれて、自分に託されている務めが何であるかをきちんとわきまえることができませんでした。ただすばらしく映ったその光景を自分たちの手元に留めることしか考えませんでした。「仮小屋を三つ建てましょう」(5節)と。
こんな有様のペトロたちでしたから、神様は雲の中から声を掛けられました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7節)これは主イエスご自身の言葉と呼応します。「わたしとわたしの言葉」(8:38)と言って、「わたしのため、わたしの福音のため」(8:35)を言い換えておられました。つまり、天の神様は「福音のことばを語るわたしの愛する子に、聴け」とおっしゃった。どこまでも、御ことばに聴くこと、それが父なる神と子なる神とにぴたりと一致した御こころであることが示されました。それが、新しいイスラエル・主イエスの弟子団・教会に一本筋のとおったことだとマルコによる福音書は申します。しかも、御ことばに聴くとき主と共にあるのだと言います。8節に「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」とありますが、ここはこのようにも読めます。「〜もはやだれも見えなかった。しかし、自分たちと共におられるイエスだけを見た。」もちろん、夢から覚めてイエスだけを見たというのではありません。主イエスが自分たちと共におられるのを見た。神の御こころを成就し、神に愛される御子が、地上に実際に自分たちとおられるのを見たのでした。
しかし、弟子たちは山から降りるとき、この山での出来事を口外することを禁じられました。しかし、ただ黙っているようにということではありませんでした。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことはだれにもはなしてはいけない」(9節)と言われました。ここからひと議論起こるのですが、それは復活にかかわることでした。復活というようなことの前にエリヤが来るはずだと弟子たちは聞いていました。イエスはそれを否定なさいませんでした。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする」(12節)といわれました。このところは、直訳しますと、「エリヤが来て、万物を復興する」となります。人々は「全世界を手に入れる」(8:36)ことこそ救いだと思いこんでいました。しかし、再来のエリヤはそうではない。13節は明らかに洗礼者ヨハネのことを言っておられます。「人々は好きなようにあしらった」。しかし、実はこれが万物の復興に寄与した。ヨハネはもてあそばれて殺されたのではない。主イエスご自身の受難の前触れとなった。死者の中からの復活の前触れとなった。主は万物の復興のために死者の中から復活するとこのとき明らかにされました。罪に勝利してまことの命を地上にもたらす。それが、万物の復興ということです。わたしたちは罪の中にあり、また罪を繰り返しますのに、主は復興してくださいます。失敗しても、躓いても、よしんば倒れても、主は再び引き起こしてくださいます。復活の主に支えられて歩んでまいりたいと思います。本日は、この礼拝に引き続いて教会総会を開きます。わたしたちの教会も新しいイスラエルとして万物の復興に至るまでの導きを求めてこの会議に臨みたいと思います。
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