マルコ福音書は、主の宣教開始のときに語った洗礼者ヨハネのことを、再び語りだしています。主の先駆者ヨハネの姿に主の行く末を見て、ご生涯を辿るようにと指示しています。「捕らえる」(17節)、「恨み〜殺そうと思っていた」(19節)、遺体の引き取り埋葬(29節)は、いずれも14,15章で主イエスの最期を記すときと同じ語で記されています。(原文)洗礼者ヨハネは捕らえられ、縛られ、恨まれ、殺されて墓に納められた。これらは、すべて主イエスのご生涯の前ぶれである。だから洗礼者ヨハネの姿に明らかになっている主イエスの行く末を承知しながら最後まで読み進めてほしいとマルコは言っていることになります。推理小説の読み方とはまるで違います。結末を知った上で読み進めよといいます。結末だけを追うのではなく、途中においても信仰的意味を読みとりながら辿るようにという指示です。
まず、ヘロデの発言ですが、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(16節)と言っています。驚いています。一度首をはねられれば二度と繋がらない。それなのに、ヨハネは生き返ってきた。これは常識では考えられない奇跡が起こったといって驚いているのではありません。主イエスの出現で、とんでもないこと・あるはずのないことが起こっていると言っています。ヘロデとヨハネとの間にはおどろおどろしいことが起こっていました。ヨハネはヘロデの結婚を「律法で許されていない」と言いました。しかも、「あなたの兄弟の妻をめとることは、あなたにとって合法的ではない」(直訳)と言いました。ヨハネはヘロデに向かって二人称で語りましたから、一対一で真正面から糺しました。妻ヘロディアはそんなヨハネを殺そうと思ったのですが、できないでいました。それは他ならぬヘロデが阻んでいたからでした。「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」(20節)ヨハネは単なる正義漢ではありませんでした。聖なる人でした。神様の聖さを体現する人でした。それで、ヘロデは恐れました。しかし、ヨハネを退けませんでした。神の前に正しくない自分を、ヘロデはヨハネと面と向かうことで知らしめられていました。悔い改めよとの神のことばを洗礼者ヨハネはヘロデに届け、ヘロデもそれを恐れながらも受け止めていました。ヘロデにしましたら、良心の痛みはありましたが、しかし、神に糺されることを受け入れていました。ヨハネが語る神のことばをまともに聞いていました。
「ところが、良い機会が訪れた」(21節)のでした。ヘロデにとっての良い機会でしたら、彼は悔い改め、救いへと導かれたのでしょうが、そうはなりませんでした。この好機はヘロディアにとってものでした。王の誕生祝いに娘が踊りで王を喜ばせた結果、王は何でもやろうと言いました。母ヘロディアは「洗礼者ヨハネの首を」と言わせました。ヘロデは思ってもみない申し出に、「非常に心を痛めた」(26節)といいます。自分を真に糺してくれる人を失うことになうからです。それはまた、ヘロデに大変な決断を強いることになりました。神の前に立つか、人の手前かという決断を迫られました。とうとうヘロデは、神のことばに耳を塞ぎ、もうヨハネが神のことばを語れないように首をはねてしまいました。ヨハネは本当に死にました。(29節)ところが、主イエスの名が知れ渡ると、ヘロデは大変驚いたのでした。(16節)ヨハネの首をはねて、もう神のことばを語れなくしてしまったのに、神のことばを語る者が今自分の前に甦ってきたといって驚いています。神のことばを語る者を抹殺したはずなのに甦ってきた。ヘロデは政治的な抵抗勢力・ライバルが現れたといって驚いているのではありません。神のことばを自分に向かって語る者が再び現れたといって驚いています。こういって、マルコ福音書は「今、甦る神のことば」を訴えます。蘇りの主は神のことばを今に甦らせて、自分の王国をかこち、人の手前ばかりで判断する者に、今甦る神のことばをこそ大切にすべきだと訴えます。
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