十字架の下にいた者たちが代わる代わる主をののしっていると、全地が暗黒に包まれました。それは例外のない人間の闇を象徴することでした。暗黒が極まったころ、その人間の闇をつん裂くように主は大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」=「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。闇の中で耳だけが働いて、余計にこの叫びが耳に残ったようです。見捨てられたという強烈な叫びであるために、何とかこれをやわらげようとする解釈が加えられました。曰く「わが神、わが神と言っておられるのだから、信頼は失っておられない」と。けれども、「わが神、わが神」と信頼だけを表明されたのではありません。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と続けられました。これをどう聴いたらよいか。「なぜわたしをお見捨てになろうとされるのですか。見捨てることを考え直してください」と言われたのではない。主は見捨てられたことを強烈に自覚しておられます。神とわたし、父と子、この絶対的な信頼関係が十字架において断絶されてしまったと大声で叫ばれた。
この絶望の叫びは、実は今暗黒に包まれている全地の者が叫ぶはずのものです。ユダ、ペトロ、他の弟子たち、ユダヤ当局者もピラトも、兵士たちも通りがかりの者たちも、強盗たちも、全地の人間が一人残らず神に見捨てられて、その絶望を叫ばざるをえないはずでした。ところが、神に見捨てられたと叫んだのは、主お一人でした。暗黒に包まれている者とは、ひとを見捨てて神から見捨てられる者のことです。主はひとを見捨てることはなさいませんでしたのに、たった一人で神に見捨てられたのでした。それで叫ばれた。身代わりは厭だ辛いと叫ぶのではなく、神に見捨てられる恐ろしさを叫ばれました。
ひとを見捨てれば神に裁かれるという裁きが、主お一人の身において引き起こされました。そんな最中にも、人々は何がおこっているのか一向に気づきませんでした。「そらエリヤを呼んでいる」(35節)などと、聴き違える始末でした。やっぱり自分が助かりたいのだ、今まで黙っていたけれどもやっぱり我慢できなくなってエリヤを呼んでいるのだと誤解しました。自分が、自分だけ助かりたいという己の醜い本音でしか主の叫びを聞けませんでした。そんな中、ある者が酢いぶどう酒を「イエスに飲ませた(直訳)」(36節)のでした。これは、ワインビネガーです。十字架を担がれる主に差し出された「没薬を混ぜたぶどう酒」(23節)とは違います。鎮痛効果はありません。逆に気付けとなります。気絶されてはつまらないから、意識を保たせておこうとしたようです。全くの傍観者のなすところでした。主が裁かれているのは、自分が受けるはずのものであるなどとは全く気づきもせずに、ひたすら傍観者を決め込んでいます。主は没薬を混ぜたぶどう酒のときはお受けになりませんでしたが、この酢いぶどう酒は受けられました。気付けの酢を飲んではっきりとした意識の中で、神の裁きを受けられました。裁きも救いも悟らない者たちに代わって裁きの死を死んで行かれました。
神の御子が神に見捨てられて十字架に死なれますと、神と人とを隔てる神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(38節)。この幕は大祭司が年に一度犠牲を捧げる時にだけくぐることが許されたものでした。それが裂けた。御子が十字架において、神の裁きを一身に受けてくださって、贖いの犠牲となってくださったからです。もう、大祭司が毎年犠牲を捧げる必要はなくなった。御子の十字架という一回限りの犠牲によって罪の幕は切って落とされたからです。
すると、そのとき、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言いました(39節)。ローマ兵にとっては皇帝以外に「神の子」は考えられません。しかし、この百人隊長は「イエスの方を向いて、そばに立っていた」ために、十字架の叫びを真正面から聴くことができました。この人は見捨てられるはずの者が十字架によって救われることになった第一号の人です。わたしたちも、十字架の叫びを真正面から聴いて第二、第三の百人隊長とされていきたいと思います。
|