「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」(1節)というのは、なんと非常識な厚かましい要求であることかと思われます。しかし、このように求める理由は「あなたがたに対して神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」(2節)からと言っています。「私の愚かさ」を「熱い思い」と言い換えています。しかも、神様の熱い思いと同じだと言います。だとすれば、この「私の愚かさ」はただのわがままではなくなります。「熱い思い」は英語の聖書では大抵ジェラシーとなっています。嫉妬してしまうほどの愚かさとは何か。しかも「神が抱いておられる嫉妬をわたしも抱いている」とまで言っています。「神の嫉妬」は「神のねたみ」とも訳せます。神のねたみは旧約聖書以来語られてきたことです。十戒に「熱情の神」とありますが、口語訳聖書では「ねたむ神」でした。「私の他に何ものも神としてはならない」という戒めの理由として「私はねたむ神であるから」と言われています。神と民との間に第三者を介入させるなら、わたしはねたむと神様はおっしゃいます。熱いかどうかという気持ちのレベルのことよりも、愛の人格関係においてそれを踏みにじることは許さないという熱さです。神がコリント教会に抱いておられる愛の関係を犯されたら嫉妬する思いと同じ思いを自分もコリント教会に対していだいているので、我慢して欲しいとパウロは言うのでした。
この犯されれば嫉妬していまうほどの愛の関係が、危険に晒されることをパウロは「心配しています」(3節)。旧約聖書の十戒からさらに創世記のアダムとエバにまで遡ってこの問題を説いています。純潔な処女としてコリント教会をキリストの嫁がせた。それを、アダムとエバのときのように「エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いがけがされて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています」と言います。キリストとコリント教会との間は大丈夫か。蛇は入り込んでいないか。アダムはエバに責任転嫁し、エバは蛇に責任転嫁しました。しかし、蛇には責任能力はない。聖書貴社は責任を負えないものに騙されて神を無視することこそ罪だと言います。コリント教会もキリストに嫁いでいるのにそこに第三者が入り込できたら、自分は嫉妬してしまうとパウロは言います。
その蛇のような第三者とは何か。「あの大使徒たち」(5節)だと言います。之には皮肉が込められています。この「大」というところは「非常に優秀な」という意味の形容詞が当てられています。それで「とびきり優秀な使徒さんたち」と訳す人がいました。このとびきり優秀な使徒さんたちは、「異なったイエス〜違った霊〜違った福音」をもたらしていました。中でもパウロは「異なったイエス」のことを一番心配しています。直訳すれば「もうひとりのイエス」となります。「サタンでさえ光の天使を装う」(14節)。サタンはサタンでございますと言って現れることはない。「もうひとりのイエス」とは、真のイエスでないものがイエスを装うもののことです。あの「とびきり優秀な使徒さんたち」は唯一のキリストを示さないで、もうひとりのキリストを伝えている。イエスを伝えるふりをして、それを飯の種にしていたようです。それに誘惑されたら、わたしたちでも、主イエスを利用するようになってしまいます。自分の人生に役立ちそうなときに限って頼る。役に立つ限りに於いて信じる。これでは「神のようになれる」と言った蛇の誘いに乗ってしまいます。
しかし、パウロはとびきり優秀な使徒さんたちと違って「神の福音を無報酬で告げ知らせた」(7節)と言います。この「無報酬」と訳される語には「賜物」という意味もあります。福音をひたすら賜物として告げ知らせた。賜物ですから、わたしたちが利用したり、自分の都合に合わせて判断したりはできない。神様とのキリストとの排他的関係を生み出すための賜物です。神様とのこの関係に入れられることを、パウロは「あなたがたを高める」と言います。わたしたち札幌北一条教会も福音を賜物のままに受けて、高められて、この地にキリストの体を形造って参りたいと思います。
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